
連休空けに「イエズス会無原罪聖母修道院せせらぎセンター」の『キリスト教的ヴィパッサナー瞑想(経験者向)』に参加。
午前中に1時間程柳田敏洋神父のお話があり、その後は昼食をはさんで様々な瞑想とミサとシェアリング。
◇呼吸の瞑想
鼻先を出入りする呼吸に注意を向ける瞑想
◇体感覚瞑想
ボディスキャンで体全体を感じながら瞑想
◇食べる瞑想(昼食)
お祈りをして、黙食で食事を味わう
◇歩く瞑想
中庭を歩き、世界をありのままに感じる
◇存在そのもの降り立つ瞑想
・私は○○ですが、○○は私ではない
(○○に名前や性別や職業や性格を入れてみる)
・私は〈私〉そのものです
・気づきそのものである私は、エンスの有無を超える超越の〈無〉です
・超越の無であるエッセに開かれた私は、〈豊さ〉そのものです
・エッセに開かれた私は〈いのち〉そのものです
午前中の柳田神父の「エッセ(存在)とエンス(存在するもの)のお話」で引用されたのは、出版されたばかりの『瞑想と意識の探求』(熊野宏昭さんの対談集/サンガ新社)の鎌田東二先生の「どうすれば完全受動態になれるのか」日本的霊性(言霊)について。

アラン島で「ぼくを吹いて」という石の声が聞こえたというお話は、「NPO東京自由大学」や「天空教室」を通して、長年鎌田先生にお世話になっているので、すでに何十回も聞いた話なんだけど…、こうして柳田神父のキリスト教的な見方を通して伺うと、改めて霊性とは存在する全てのものに共通しているものなのだなと。目から鱗のようでした。
そこで、なんと以前合宿でお世話になった那須のトラピスト修道院の瞑想体験のお話や恩師である瞑想画家の横尾龍彦先生の作品(キリスト像や聖母像)と母校明治学園のお話も出て…何だか見えない力に後押しされているような気がした。
5月の風が爽やかな美しい中庭の緑に癒された一日。
静けさと人々の暖かさが、今いちばん必要なことだと思う。
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