私を本当の名前で呼んでください

☆『私を本当の名前で呼んでください』☆

台風19号の余波が各地に残る14日午後。
ティク・ナット・ハン詩集(島田啓介訳)『私を本当の名前で呼んでください』~生死をこえたつながりを見つめる(@西荻窪 ほびっと村学校)に参加した。

1回目に続き、タイの詩集を初めて邦訳された翻訳家の島田啓介さんと異文化コミュニケーションの尚眼ナオミさんがナビゲーター役。マインドフルネス講座でお馴染みの参加者も多い。

まず歩くワーク。普通に。急いで。意図をもって。その違いを味わう。
次に仰向けになって、(イメージとして)きれいな水を頭から流し体を洗い、そのまま詩の朗読が始まると、頭や文字で表されたものではない言葉が、音や響きとなって直に体に染み込んでいく。
島田さんの声、尚眼さんの言葉が体の中に入り、そこから化学反応のように何かが生まれ始めていた。

法華経に範をとり章立てされているこの詩集の「迹門」と「本門」はまさに俗世(歴史的次元)と涅槃(究極の次元)の対比であるが、全編を通してあらゆる存在への平等な眼差しが(時には、怒り、悲しみ、絶望、虚無も)インタービーイングの視点で綴られていることが分かる。現在、故郷ベトナムの慈孝寺で療養されているタイの存在は、出会う人々に今も影響を与え続けているそうだ。

後半は、島田さんが尚眼さんのお母様の介護をサポートされた話と、今年亡くなられたばかりの島田さんのお父様を看取られた話となる。
言葉を発することが出来なくても、その人から感じることが出来る存在について。世話をする人が「今日もお世話になりました。」と頭を下げる関係性。
共に在るということ。存在の呼吸。

たまたま、最近私が受講したヨガセラピーの学びの中で、自分の存在を感じ、相手の存在を感じるという体験をしたばかりだった。ずっと探し求め、追い続けてきた自己探求の道の中で、ふと「to do」(~すること)を手放し、「to be」(ここに在ること)でいるとき訪れた「安心」と「安らぎ」。そのとき感じたの言葉にならない幸福感。至福のとき。

ずっと「~すること」ばかりで生きてきたのかもしれない。何をすれば~、どう生きればいいのかわからなかった。だからヨガに出会い、瞑想に惹かれ、起きていることをあるがままに観ようとした。それでも恣意的で前のめりでいるときには、なかなか存在は素顔を見せてはくれなかった。

お二人のお母様とお父様の看取りの体験は、死んでも死なない「いのち」との出会いでもある。確かに今ここに「存在する」ものとの出会い。そこにはリアルな不安も葛藤もある。

92歳の実家の母のこと。
闘病中の元家族のこと。
亡くなった息子のこと。

胸の奥に居場所を見つけたはずの大切な人との関わりが、ふつふつと私の中で声を上げ始める。
私を根底から突き動かす変わらない存在の声。
過去と今と未来の自分が行ったり来たりしながら、どこか落ち着く場所を探していた。

大型台風が起こらなかったら…。
ヨガや瞑想に出会っていなかったら…。
今日の出会いがなかったら…。

Inter being すべてはつながりあっている✨

因縁生起の不思議さにやさしく包まれ☺️

西荻窪の美味しいカレーをみんなで食べて語り合った
見えない満月の夜🌔

俗世に深く触れれば
涅槃に自らを見出すことができる
涅槃に触れているかぎり
俗世から離れることはない―

私を本当の名前で呼んでください。

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